2 宮崎2ドン・ボスコの風 アヴァンティ no.2宮崎県03● 宣教・司牧の場 日本においてサレジオ会宣教師たちが最初に任されたのは、それまでパリ外国宣教会が担当していた宮崎、大分、中津の小教区でした。チマッティ神父は宣教師団を3グループに分けて司牧活動を展開することにします。しかし、その前に彼らは日本語を勉強しなければいけません。 宮崎に於いて1年間前任者と共に生活しながら、小学生の教科書を使ってみんなで学んでいったのでした。 現在の橘通に面した一角にその教会はあり、言葉の困難はありつつも、子どもたちや信徒たちの司牧に熱心に働いたのでした。また、日本の各地に出向いてコンサートを開き、音楽を通しての布教にも力を入れていました。3年後の1929年にはサレジアン・シスターズの第1回宣教師団も来日し、ともに宮崎の地で働き始めることになります。● 社会福祉事業と修道女会の設立の場 宮崎教会で働き始めてから、この地域に身寄りのない子どもたちや見捨てられ世話をされずにいたお年寄りがいることに気がついた宣教師たちは、教会の青年たちとともに社会福祉事業にも乗り出します。1932年に子どもたちやお年寄りの世話をする「救護院」を建て、そこで働く女性たちの中からこれと思う人を神から与えられた使命へといざない、「宮崎カリタス修道女会(現・イエスのカリタス修道女会)」が誕生します。 救護院はその働きが宮崎の市民からとても評価され、現在では「カリタスの園」という社会福祉法人として、その使命が引き継がれています。● 司祭・修道士召命の養成の場 また、日本でのサレジオ会の発展を見越して、世界各地から新たな神学生たちが宣教師として日本にやってきました。彼らの養成のために、大淀河畔に日本家屋を借りて神学院を開いたのは、来日4年目の1930年のことでした。その後、より良い環境を得るために、神学院は高鍋に移設されることになります。 チマッティ神父は、日本人の聖職者召命の発掘にも当初から大きな関心を持っていました。 神学院を開設した同年に、中津に小神学校を開き、志ある少年たちを集めます。1933年に宮崎に移設され、「宮崎小神学校」となり、戦争の影響で閉鎖されるまでの12年間に数多くの邦人司祭・会員を輩出することになります。そして、この小神学校が現在の日向学院中学校・高等学校誕生の基礎となっていくのです。 16都府県から 現在の宣教師の人数と出身国イタリア ポーランド ベトナム ケニア み やざ き宮崎アメリカ※旧満州国、朝鮮、台湾出身の 日本人会員を含みます。1926年頃の宮崎教会2025年5月現在日向高鍋宮 崎 県 宮 崎 市アルゼンチン東ティモール 1人5人メキシコ 5人アルゼンチン 2人2人1人1人計17人サレジオ会揺籃の地56人
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