021957年9月22日、下井草教会で祝った聖ドメニコ・サヴィオ帰天100周年ドン・ボスコとの出会い 1879年、イタリア中部ファエンツァ郊外の貧しくも温かい家庭に生まれた彼は、信仰篤い両親に育てられ、2歳の時にドン・ボスコに出会います。 彼の母親は幼い息子にドン・ボスコを一目見せようとわが子を高く差し上げてこう叫びます。「ヴィンチェンツォ、ドン・ボスコをごらん」。この言葉は彼の心に深く刻まれました。 3歳の時に父を亡くした後、サレジオ会のオラトリオ(教会学校)に兄ルイジとともに通うようになり、9歳になると兄の後を追ってサレジオ会の学校の寮に入り、そこで7年を過ごします。 背は低かったのですが、成績優秀、足も速く、演劇、 聖歌隊でも皆の注目を浴びる存在でした。しかしそれに浮かれる素振りは見せなかったと言われています。 ある時、南米から帰国した宣教師の話を聞いて、いつかは遠く貧しい宣教地に行きたいと考えるようになりました。ドン・ボスコの精神を学んだヴィンチェンツォ少年は、導かれるように17歳の時、 生涯を神にささげる誓いを立て、サレジオ会へ入会しました。多才な司祭 サレジオ会員となった彼は、トリノのヴァルサリチェ学院の高等学校を卒業し、実地課程ではヴァルサリチェ学院で教師をしながら、国立トリノ大学で自然科学と哲学・教育の学位、国立パルマ音楽院で「コーラスのマエストロ」のディプロマ(免許状)を取得します。 神学の勉強も並行して行い、1905年25歳で司祭に叙階されました。その後、46歳までヴァルサリチェ学院で校長も務め、忙しい日々を過ごしたのでした。親しみやすさと対話の姿勢によって生徒や会員から慕われました。 多忙の中で記された著作『教育者ドン・ボスコ』には、予防教育法の伝統にしっかりと根差しつつ、自然科学や同時代の文化とも対話しようとする開かれた態度が見られます。また、当時サレジオ会の中で語られることの少なかった女性への教育や性教育にも触れている点も注目されます。宣教への熱い思い イタリアでの充実した環境の中でも、宣教への熱意は消えていませんでした。 当時のサレジオ会総長、リナルディ神父へ宛てた手紙でこう語っています。「…… 私が赴く宣教地として、より貧しく、より苦労の多い、より見捨てられた場所を見つけてください。どうも居心地のよい場所は私には合わないのです。どうか、今度こそ、 願いをお聞き入れください」。 手紙が送られた同じ頃、ローマ教皇からの命を受けたサレジオ会は、宣教師派遣50周年記念事業として日本へ宣教師を派遣することを決定。 1925年12月29 日、チマッティ神父を団長とする宣教師団はフルダ号に乗り、イタリア・ジェノヴァ港から日本へ向けて出発し たのでした。 46歳の時です。日本の土になりたい チマッティ神父が宣教において苦労したのは日本語の習得でした。それに加え戦前・戦中・戦後のとても困難な時代に慣れない土地での苦労は計り知れません。 彼は他の宣教師たち、日本で育てた教え子たちとともに、日本の人びと、特に青少年のために出版をし、学校を建て、様々な事業に心血を注ぎました。 チマッティ神父は、「日本の人びとを愛すれば愛するほど、あらゆる面で彼らに似てくるはず」「私たち宣教師の心が日本的な心にならなければ、日本の人びとを回心させることはできない」と確信をもって記しています。 病床での「日本の土になりたい」という言葉が示す通り、すべてを日本にささげた宣教師でした。 チマッティ神父の働きは今も、その精神を受け継いだ日本のサレジオ家族によって継続しています。 困難な状況の中でもドン・ボスコの精神を生き抜く姿を示し 向鍋 Salesian Bulletin Japan Avanti no.3あつチマッティ神父人柄と生涯について
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