同窓生紹介 ドン・ボスコの教え子たち

日向学院高等学校 野球部前監督

三原 武博さん

みはらたけひろ 1945年、宮崎県国富町に生まれる。日向学院高等学校を卒業。1970年、同学院の体育科教諭となる。2年目に高校野球部監督に就任。1980年、第62回夏の全国高校野球選手権大会、1987年、第59回選抜高校野球大会に同学院を導く。2013年3月退職。

サレジオ歴

日向学院高等学校同窓生

生徒とともに、生徒のために。
高校野球に捧げた43年間。
ドン・ボスコのアシステンツァは野球指導の原点です。

日向学院OBで、体育の教師として同学院に奉職し、また高校野球部監督として43年間指導してきた三原武博先生が、この3月をもって退職された。とくに高校野球への熱い思いを語っていただいた。

「ドン・ボスコの風」No.11 2013年7月より転載。 記事内容は取材当時のものです。

母校の教師になったいきさつを。

私は宮崎県国富町の公立中学校から高校は日向学院に進学しました。部活動はなにもしませんでしたが、体育が好きだったので学院を卒業して千葉県の順天堂大学体育学部(現スポーツ健康科学部)健康教育科に進学しました。ただ体育の教師になるというイメージはなく、いずれどこかの企業に就職できればと思っていました。ところがそのころ日向学院で体育の先生を一人採用する話があって、卒業生の私の名前が出たそうです。そして当時の校長のマッサ神父から大学のほうに連絡が来ました。自分としては宮崎に帰りたいという気持ちもあったので面接を受けました。そして中学校の体育の教師と寮監という条件で採用していただきました。

高校野球部の監督になったいきさつは?

私がまだ若い新卒の体育の先生ということで、高校野球部の生徒が「ノックをしてくれんか」と。私は中学まで野球部にいて少しは心得があったので引き受けました。すると高校生たちが明日も来てくれと。これが最初のきっかけで、そのうち監督の先生から野球部を任された感じになってしまいました。

その頃、日向学院は進学に力を入れるという時代であまり部活動は熱心でなく、生徒も勉強の余暇に野球をやるという感じでした。私も生徒と一緒に楽しめばいいと思って手伝っていました。ですから当然試合では弱いんです。試合に出ると負け、それもひどい負け方でした。もうゲームが成り立たない。これではいかん、やるのであればもう少し腰を据えてやってみようという気持ちになりました。就職2年目から寮監を免除してもらい、正式に高校野球部の監督としてスタートしました。

最初から高い目標を設定したのですか?

2012年7月、夏最後の指揮

甲子園というイメージはまったくありませんでした。自分たちの力量や環境を考えたら無理だろうと。ただ任された以上は恥ずかしくない試合をしたい。生徒は敏感ですから監督がどの程度本気なのかは見ています。それは生徒にも伝わっていったと思います。そうやって3、4年経つうちに結果が出るようになってきました。県大会の1回戦でコールドで負けなくなり、ときどきベスト8まで行けるようになっていくと、宮崎のマスコミにも取り上げられるようになりました。そして試行錯誤しながらやって10年目に甲子園に行きました。運もよかったのでしょうけれど、たまたま結果が出ました。

実は10年目に甲子園に行ったのですが、今思うと9年目のチームが最強のチームでした。ところが彼らは宮崎県大会の決勝で負けました。そして次の年の選手は育っていませんでした。実際に弱く、何の前評判もありませんでした。夏の県大会前まで6勝23敗ぐらいだったと思います。しかし、一つ勝ち、二つ勝つうちに、なにか不思議な雰囲気が出て奇跡的に勝っていったのです。

高校生というあの年頃の子は、技術の戦いの前に精神の面で負けたり勝ったりするのですね。よく世間でいう「あきらめちゃいかん」というのは本当です。そしてゲームに魔物がすんでいるというのは、強いチームでも精神面で崩れていくということなんですね。生徒たちにはこのことをよく話ました。心が相手よりも負けていたら試合に負けるよと。相手が技術で10持っていても心が弱くて7しか出せないかもしれない。うちは技術を7しか持っていなくても心が強くて7出せば五分だぞと。

そして結果を出すことが一番の薬ですね。やはり勝つことです。監督は試合で勝たせるのが役目です。練習試合でも勝ったときの表情は生徒も親もすごくいいんですよね。公式戦で勝つと練習試合の10倍ぐらいみんな手を取り合って喜びます。勝って得るものというものはあります。だから必死になります。だけど負けたときの悔しさを何度味わったことでしょうね。監督をしていて苦労が9割で、喜びは一瞬です。その一瞬の喜びが何にも変えられないですよね。

次世代へ伝えたいメッセージは?

日向学院グラウンドにて。三塁ベンチのこの場所でいつも球児たちを見守っていた。

好きな言葉は「練習は嘘をつかない」ですね。練習も基本的な練習をしっかりしなければ、高度な技術は身につきません。練習をせずに試合をしても負けます。勉強も同じです。やらずに試験を受けたって負けます。

指導者として43年心がけたのは常に生徒がいるところに自分がいるということ。やはり指導者は現場にいて一緒に共有しなければならないと思います。ですから私は練習を絶対休まず、生徒が練習するときは必ずそこにいました。どんどんストイックになっていって生徒がユニフォームを着ているなら自分も着ました。監督というのは生徒の調子の良し悪しを把握できていないと動かせません。人づてではなく、その場にいて自分で把握することが大切です。きざな言い方かもしれませんが、生徒に対する愛情といってもいいかもしれません。まさにドン・ボスコが言うアシステンツァは私の高校野球指導の原点なんですよ。