横浜駅西口地下街にあるドトールコーヒーショップ横浜ジョイナス店の前で。
父は青果業と料理屋をしていました。当時有名だったのが、横浜駅のダイヤモンド地下街(現・相鉄ジョイナス)にあった焼きそば・スナック「クラチ」という店です。青果業ですから、野菜をたくさん使った焼きそばをやっていました。学生が学校の帰りに1杯100円以下で焼きそばを食べていました。テイクアウトもできて、ファーストフードの走りみたいなものでした。
いつか家業を継ごうという思いもあって、私は横浜市立大学商学部に行きました。卒業して横浜銀行に就職し10年間働きました。銀行での経験は今の仕事には生きていて、地元での人脈づくりで助かっています。
今の私の事業の中ではドトールコーヒー(以下ドトール)が売上規模として圧倒的に大きいのですが、これは銀行での出会いから始まったものです。銀行で働いて3店目に着任したのは八重洲にあった東京支店です。その支店の近くに、当時はまだあまり知られていなかったドトールコーヒーがありました。少しずつドトールの店舗が増えてきた時期です。朝、仕事の前に1杯150円のコーヒーを飲み、昼食でも使っていました。そのうち横浜銀行と取引をさせていただこうと思って、ドトールの本店を訪ねました。何度か話をしに通っていると、「横浜でどこか物件を紹介してくれたら、取引しましょう」ということになりました。ドトールは横浜にまだ店舗がなかったのです。ちょうどその頃、父がやっていた焼きそば店は、マクドナルドなどのファーストフードやインスタント食品に押され始めていました。そこでコーヒーが好きだった父をドトールに連れて行き「こういう店を、横浜でやってみないか」というと、父は「是非やろう」と。それで話がトントン拍子に進んで、横浜での1号店がダイヤモンド地下街にオープンしたのです。昭和61年(1986年)12月で、私は32歳でした。
その半年後に、私は銀行を辞めることになりました。というのは、父の片腕として経理をしていた叔父が心筋梗塞で急死して、経理をやる人がいなくなり、父から「帰ってこい」といわれたからです。こうして私は父の仕事を引き継ぐことになりましたが、自分で何↓か新しいことをしたいという思いもありました。そこで、横浜でのドトールの店舗の数を増やしていきました。当時、フランチャイズシステムはいくつか出てきていて、海外からのものもありましたが、日本オリジナルのドトールは異色で、商店街の本屋や八百屋などに転業を勧めていく業態としては先駆的でした。
コーヒーは、かつては喫茶店で1杯400円以上する高級な飲み物で、敷居が高いイメージでした。ドトールのコンセプトは、おいしいコーヒーを単価を安くしてたくさんの人に飲んでいただきたいというものでした。さらにコーヒーだけを売るのではなくて、ちょっとおしゃれな感覚を大事にして、やすらぎと活力、空間を提供するという基本的な考えがあり、それに共鳴しました。ドトールにお客さまが来る目的はたくさんあると思います。うれしいから来る人、疲れている人、仕事や生活で悩んでいる人もいるかもしれません。いろんな人たちが、コーヒーを飲んで帰るときにはちょっと元気になってくれたらと思い、がんばって店を作ってきて今日に至っています。ドトール創業のオーナーと一緒に自分たちで開拓して店を展開してきたという思いはあります。今、ドトールコーヒーの店舗は横浜エリアに当社の経営の下で15店舗あります。
それから父が他に割烹料理屋をしていましたが、割烹料理業態の難しい時代の流れの中で、本業の青果業を強みとして、野菜料理を中心とする和食料理店に変えました。