サレジオ会との出会い
1935年3月に北朝鮮の新義州で生まれました。鴨緑江のすぐそばの町で、すぐ隣が満州でした。戦後、小学校6年生で日本に引き揚げてきました。父親が抑留されていたので母親の故郷、大分県に行きました。国東半島の大田村(現杵築市)というところです。でも満州や朝鮮半島からの引き揚げ者で実家は人で溢れ、食糧不足で家庭の状況も悪くなりました。母は決意して実家を離れ、別府市に行くことにしました。兄と姉がそのまますぐ奉公に出て家を離れました。母は病気がちの弟につきっきりで夜病院に泊まることが多く、私はいつも一人で家に残っていました。しかも、住む家は転々と変わり、ほとんど学校に行けず、中学校も転々としました。戦後の別府市はかなり猥雑な町。進駐軍のアメリカ兵がいて、たくさんの売春婦がいました。そういう中で私は思春期を迎え、当然のように勉強もせずたむろするグループに入っていきました。
中学3年生の5月のある日、遊び仲間と原始的な当時のパチンコ屋に入っているところを見つかって、警察署に補導されてしまいました。中学校の担任から母親と一緒に呼び出され、懇々と説教されました。母親は私を一人でいさせている呵責もあったのか、問題を感じたんでしょうね。その頃、子どもたちでいっぱいだった別府カトリック教会の存在を知っていて、そこに私を行かせることにしました。もともと私の家はカトリックではありませんでしたけれど。数日後、母が頼んだ信者の男性と母とに挟まれて、半ば強制的に私は教会に連れて行かれました。そこで出会ったのがレオーネ・リヴィアベッラ神父でした。あの頃彼は50代だったでしょうか。彼は何も難しいことは言いませんでした。「溝部君、ピンポンはできるかね?」と。そして2人で卓球をしました。ああ、教会って卓球するところなんだなあと思いました。それが初めてのサレジオ会員との出会いです。
戦後の混乱の時代ですから、学校は暴力が多かったです。暴力教師がいましたし、クラス同士の、あるいは他校との喧嘩が絶えませんでした。卑猥な話も溢れていました。別府という町柄、男の子も女の子もませていました。そんな中で教会に行ったときに、なんて平和なんだろうと本能的に思いました。喧嘩がありませんし、みんな優しい。神父さんたちが卓球してくれたり、布のボールやミットを作ってくれて野球をしたりしました。いい思い出があります。しばらくして「洗礼を受けたい」と言うと、リヴィアベッラ神父は「毎日ミサに来なさい」と言いました。そこで毎朝ミサに通い始めました。