同窓生紹介 ドン・ボスコの教え子たち

現在のサレジオ高専正門前にて。 真っ直ぐな眼差しと丁寧な話し方が意志の強さを感じさせる

独立行政法人 国際協力機構JICA専門家

辻村 直さん

つじむらなお 工業デザイン学科卒。在学中に学校主催の東ティモール海外ボランティアに参加。卒業後は洋蘭の培養専門職に従事。2004年よりサレジオ会系NGOの東ティモール駐在スタッフとして赴任。援助の届きにくい東部地域にて漁業普及プロジェクトを実施。ファイバー・グラスでのボート作り、船外機のメンテナンス、漁業組合の設立などに尽力。2010年より国際公務員として同国全土を対象とした漁業普及プロジェクトに従事。現在も同国にて国際協力専門家として様々なプロジェクトに従事している。

サレジオ歴

サレジオ工業高等専門学校(旧育英工業高等専門学校) 同窓生

自分にリミットをもうけないで。

人生を変える出会いがある。それは人との出会いだけではない。東ティモールという“忘れ去られた国”に出会い、そこに生きる人びとのために情熱を注ぐ女性がいる。JICA専門家の辻村直さん。今も東ティモールで活動し続ける彼女の波瀾万丈な経験談と若者へのメッセージを伺った。

「ドン・ボスコの風」No.14 2015年1月より転載。 記事内容は取材当時のものです。

今どんなお仕事を?

東ティモールで働いています。JICA(独立行政法人 国際協力機構/ODAの実施機関)で、ODA(政府開発援助=外務省/発展途上国の経済発展や福祉向上のため、先進国が行う援助や出資)の橋を建設するプロジェクトの土地収用(建築計画内の土地の住民に別の場所へ移住してもらうこと)のために住民の情報収集を現地政府のティモール人と共に行っています。

この仕事についたきっかけは?

NGO育英海外ボランティア現地スタッフと

一番のきっかけは、育英高専時代にサレジオ会のスロイテル神父様が行っていたNGOのボランティアプログラム、育英海外ボランティア(現在は解散)に参加して、1994年の卒業間際の夏に初めて東ティモールに行き、1カ月半過ごしたことです。海外ボランティアも初めてでした。東部のバウカウで風車動力のポンプを設置する土木作業をしました。このとき、伝手で出会った胡蝶蘭のメディクローム培養(細胞を培養してクローンの苗を作ること)の研究所に就職が決まっていて、半分は卒業旅行も兼ねていました。就職後は8年弱働き、充実した生活を送っていましたが、その間も夏か春に2~3週間休暇を使って育英海外ボランティアにOGとして参加して、東ティモールのことを少しずつ知りました。その頃東ティモールはインドネシアの一部で、とても治安の悪い国でした。1999年に独立した時はとても喜んだのを覚えています。

業界の不景気で勤務先の会社が倒産した同じ頃に、スロイテル神父様がJICA支援の漁業普及プロジェクトに長期で関わる人を探していたので、言葉も技術もないことに不安を感じつつも志願し、2003年1月、育英海外ボランティアの職員として念願の東ティモールでの仕事と生活を始めました。憧れの場所だったので、日本とは違って電気も水もない生活でしたが、充実した生活でした。テトゥン語も少ない教材で少しずつ現地で覚えました。わかってくると、とても嬉しかったです。それからずっと漁業普及に携わってきています。現地の漁師たちとファイバー・グラスでボートを作り、魚が捕れるようになると、グループを組織したりと少しずつ発展していきました。自足のために始めた漁業が、魚を販売するまでになりました。ボート作りを漁師たちに技術移転するため、ヤマハ発動機株式会社とJICAから専門家を1カ月程派遣していただいたこともありました。漁師たちと一緒に学び、作ることで絆ができていると感じています。

その後、漁業プロジェクト修了後、現地の首都で開催された国際機関のワークショップに参加しました。その際、関わったプロジェクトについて発表する機会を得ました。それを聞きに来ていたFAO(国連食料農業機関)の方が漁業普及のための人材を欲していて、現地で漁業を学び、現地に精通した人材と認識してくれて、一緒に働きませんかとオファーをいただきましたが、始めは半信半疑でした。一度日本に帰って少し休もうと考えていたところ、FAOから「本当に来てください」とEメールが届いたのです。そこでお受けし、1カ月後に漁業プロジェクトで今度はFAO職員のコンサルタントとして2年半の契約で現地の農林水産省の役人と多国籍なスタッフと共に働きました。その後、JICAで橋の建設のプロジェクトで人材を探しており、FAO職員の時に全国の漁師を対象に経済家計調査をやっていた経歴が買われて現在に至ります。

東ティモールでの仕事には、やりがいを感じています。現地に飛び込んで、色々吸収して、地方漁師とその家族に関わった7年間。この人たちの思いや大変な生活を見て、彼らの言葉にならない思いをどうにか中央政府の政策に生かしたいという思いで橋渡しの役割を果たしました。漁業普及プロジェクトの際、造船はもちろん、トレーニングして船外機を修理する技術を覚えました。ヤマハに研修にも行きました。政府の役人と一緒にスペアパーツを持って、船外機を直して回るキャンペーンをやった時に、以前会ったことのある漁師との交流が生まれたりもしました。こうして現地政府の人に経験を伝え、共に漁師たちの所に行く。そこで私を突き動かしているのは社会貢献欲です。それは今でも最初のボランティアの時のままです。同国コモロにある職業訓練所で、船外機を修理していると、集まってくる学生たちに、「何でも聞いてください」と恥じらわずに言います。「ただでもらったので、ただで分けます」と。私は東ティモールでお返しできないほどのものを与えられました。それは今でも返し切れていないのです。

なぜ育英高専に?

漁師たちに船外機の修理をレクチャー中

普通の子どもでしたが、絵を描くのが好きで、物を作る現場に入るにはどうしたらいいか漠然と考えていたら、通っていた清瀬教会に育英高専の電子科に通っている幼なじみがいたのです。それで、決めました。私は女子の4期生ですが、当時女子はとても少なくて、お手洗い、更衣室とか全部ピッカピカの状態でした。外国人の神父様が多かったのを覚えています。伏木神父様が教えてくださっていた人間論・倫理やデザイン論を論文に書くという授業が面白かったし、工房で溶接や木工、プラスチック成形、陶芸など何でも作るのが非常に楽しかったです。ヘンドリックス先生と深川先生からは、ただならぬオーラというか、偏屈なまでにこだわるデザイナー魂を感じました。それが専門性なのかなと思いますし、その後、社会人となって専門性の大切さを身をもって体験しました。思い出のハイライトはやっぱり東ティモールに行ったことかな。初めて清水の舞台から飛び降りるような気持ちでした。それがなかったら今頃何をやっていたのでしょうね。

若い人たちにメッセージを。

自分にリミットをもうけないで。こんな平々凡々とした私がチャンスを与えられたんです。優秀だから選ばれたわけではないのです。不安でも、ちょっとだけ好奇心がまさった。すぐに力になれないけど、何でも学びますという気持ちです。まず自分の事を好きになってほしい。自分が最初に自身の味方をしなかったら、だれも味方してくれないですよ。興味があることはあると言った方がいい。恥ずかしいとか、主張しない美しさとか日本人にはありますが、それは海外では通用しないですよ。言わなかったら、誰もわかってくれないのです。人から言われてではなく、自分がどうしたいか。思いがあり、それを発信できることは重要なことです。場違いとか思わないで。

最初のボランティアの時にお世話になったスペイン人のアンドレ・カジェハ神父様がフェアウェルパーティをしてくれたとき、「何もできないと落ち込まないでください。自分の足でここまで来たこと、東ティモールで見たことを持って日本に帰ってください。この忘れ去られた国に遠い日本から訪ねてきてくれたこと、知り合いになってくれたあなたたちの存在(プレゼンス)こそがプレゼントだよ」と言ってくださいました。東ティモールの地を踏んで、息をしていただけなんだけど、迎えられた。帰ったら何かしなきゃなと思いました。その夜のパーティの時のことは忘れられなかったですね。この言葉は皆さん一人ひとりに言えることだと思います。自分の存在を認めて、自分を好きになって、味方をして欲しいですね。